週刊ながさき2.12名曲「長崎の鐘」が生まれた経緯

「長崎の鐘」
(作詞 サトウハチロー 作曲 古関裕而)

原爆に被爆しながら献身的に被害者の救護に当たった
長崎医大教授・永井隆博士について歌った歌です


1 こよなく晴れた青空を
  悲しと思うせつなさよ
  うねりの波の人の世に
  はかなく生きる野の花よ
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

2 召されて妻は天国へ
  別れてひとり旅立ちぬ
  かたみに残るロザリオの
  鎖に白きわが涙
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

3 つぶやく雨のミサの音
  たたえる風の神の歌
  耀く胸の十字架に
  ほほえむ海の雲の色
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

4 こころの罪をうちあけて
  更け行く夜の月すみぬ
  貧しき家の柱にも
  気高く白きマリア様
  なぐさめ はげまし 長崎の
  ああ 長崎の鐘が鳴る

昭和20年(1945)8月9日午前11時2分、長崎に原爆投下。
 爆心地から700メートルしか離れていない長崎医大の診察室で被爆した
 永井はまもなく大量出血のため失神しましたが、気づいたのちも、さらに救護活動を続け、帰宅したのは翌日のことでした

 自宅は跡形もなく、台所があったとおぼしきあたりに、黒っぽい固まりがありました。そのすぐそばに、妻・緑がいつも身につけていたロザリオ(ローマカトリック教徒が使う数珠のようなもの)が落ちていました。黒っぽい固まりは、焼け残った妻の骨盤と腰椎でした。

 妻を埋葬したのち、永井は医療班を組織し、引き続き救護活動に挺身しました。しかし、9月20日、出血が続いて昏睡状態に陥ったため、医療班は解散になりました。

「長崎の鐘」とは、廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のこと。

その後は病床に伏しながら、執筆活動に集中
 プロの著述家も及ばぬペースで彼に執筆を続けさせたのは、だいいちには平和を希求する思いを人びとに伝えたかったからでしょう。

 苦難にめげず、平和と愛を訴え続けるその姿は、国内のみならず、海外でも深い感動を呼びました。
 昭和23年10月には、来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れ、翌24年5月には、巡幸中の昭和天皇の見舞いを受けました。
 また、昭和24年5月と25年5月の2度にわたって、ローマ教皇庁が特使を見舞いに派遣しました。

昭和26年(1951)5月1日、長崎大学医学部付属病院で逝去しました。43歳の若さでした。

 さて、『長崎の鐘』という歌との関わりですが、これは、永井隆と親交のあった医学博士・式場隆三郎が、昭和24年にコロムビアレコードに働きかけたことによって実現したものと伝えられています。


サトウハチローは、永井から贈られた著書を読んで感動し、「これは神さまがおれに書けといっているのだ」と確信して、全身全霊を捧げて作詞したといいます。


 それは作曲の古関裕而も同じでした。そのメロディがすばらしいのは、短調で始まった曲が、「なぐさめ、はげまし……」のところで明るい長調に転じる点です。これによって、悲しみにうちひしがれていないで、未来に希望をもとう、という歌詞のメッセージが強力に増幅されて伝わってきます。

本文は下記などより引用抜粋し、再構成させて頂きました
http://app.m-cocolog.jp/t/typecast/210196/181227/18724888

永井隆博士については、開場に隣接する原爆資料館内にて
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